东大の宝第5回
米国でジャーナリストとして活動していたラフカディオ?ハーンは、1890年に来日。松江から熊本、神戸と渡り歩いた後、1896年に东京帝国大学文科大学(文学部)の英文学講師に着任しました。
狈贬碍连続テレビ小説『』のモデルとなったその生涯と、文学部に残る関连资料について、后辈にあたる英语英米文学研究室のお二人に闻きました。
漱石より学生から爱された「ヘルン先生」の読みやすい草稿&蔵书
(左)阿部公彦
ABE Masahiko
人文社会系研究科 教授
(右)与良美纱子
YORA Misako
人文社会系研究科 助教


主人公は16歳なのに幼児の知力しかない力。脳の病で死ぬ前に母親が手に書いた「力ばか」という文字が、ある名家の赤子の手に出現し……。His name was Riki, which means Strengthから始まる、日本語にして1400字程度の短編。

1904年にホートン?ミフリン社から出版された办飞补颈诲补苍には、17编の怪谈と3编の随笔を収録。
「松江が大好きなハーンでしたが、軍都?熊本は性に合わなかったようです。ジャーナリストに戻った神戸で文科大学から打診を受け、妻のセツとともに东京に来ました」と語るのは、英语英米文学研究室の阿部公彦先生。
ひと月ほどは赤门前と龙冈町の宿から、后には市ヶ谷の家から登校したハーンの授业は、学生に人気でした。教え子らの座谈会の记録からは、文法や表层の知识でなく文学の本质を理解するよう求めていたことがわかります。
「外国人教师の后辈にあたるによると、外国人コミュニティに留まる人が多いなか、ハーンは日本の社会に入り、学生らと真摯に向き合ったようです」と同研究室の与良美纱子先生。
一方で、他の教员との交流や大学当局とのやりとりは顺调とは言えませんでした。教员控室から次第に足が远のき、散歩先から教室に直行していた、と文科大学学长だった井上哲次郎が回想しています。
「いわゆるお雇い外国人の多くは教授でしたが、小泉家に入り日本国籍となった彼は、日本人の教授要件が适用されたため讲师でした。それでサバティカル休暇を取って海外に行けないことを特に恨んだようです」(阿部)
不満を强めたのが、英国留学中だった夏目漱石の帰国です。漱石を讲师に招くための人件费を考えた大学は、ハーンの授业数を削减。学生が留任运动を行ったものの、怒った彼は1903年に退职します。
「着任当初の漱石の授业は文法に生真面目で、学生の评価はハーンと対照的でした。后には漱石も人気が出ますが」(阿部)
口承されてきた日本の民话や神话を英语で西洋社会に绍介した功绩で知られるハーン。研究室には彼の草稿や蔵书などの资料が100点以上残ります。「耳なし芳一」や「雪女」とともに『怪谈』に収められた短编「力ばか」の草稿は、その仕事ぶりをよく伝えます。
「教训めかさずサッと短く终わるのが特徴。おかげで読者の想像はふくらみます。学究的というより文人的だった彼は「再话」というモードに向いていました」と阿部先生。与良先生は「大きな歴史だけでなく、日常に関わることや小さいものをよしとする感覚が强かったはず」と分析しています。
もう一つの特徴は笔跡です。他の作家と比べ、ハーンの笔记体は非常に読みやすいもの。字を斜めに寝かせる米国式をハーンが一扫し、字を立たせる英国式に学生の书き方を直したことが、先の座谈会録に书かれています。
「一种宗教的とも言えるようなオーラ、人を感化する强い力があったのではないでしょうか」(阿部)
伝承文学が盛んなアイルランドで育ち、流れ着いた日本で奇談を愛したハーン。その思いは多くの文献に形を変え、东大の宝に化けて受け継がれます。

Lafcadio Hearn
1850年、ギリシャ?レフカダ岛生まれ。松江时代に女中だった小泉セツと结婚し、小泉八云に改名。1904年没。
ハーン文库

日本人で初めて东京帝国大学英文科の教授を務めた市河三喜が集め始め、歴代の教員が拡充してきた数多の関連資料が、法文2号館の書庫に収蔵されています。「未整理のものも多々。なんとか本格的な文庫に成長させたいのですが……」(阿部)
「ヘルン先生」と慕われたハーンの初版本が表紙を飾る「东大文学部カレンダー2026」が东大オフィシャルショップにて贩売中です。

